創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし) 雑文 人形浄瑠璃あれこれ

 

 

昨晩人形浄瑠璃というものを生まれて初めて見たのだが最初の数分は本当に何を言っているのか不明で通訳が必要であった。言葉というものは変化してゆく、それでも去年くらいから偉大なる岡本綺堂等の明治時代文豪の描いた捕物帳なんかを朗読で聴いていたため、耳が慣れて、勝手に江戸を構築してくれるまでに至っていたので何とか意味が解る程度には聞けた。

 

話は逸れるが当方、文字は書けるけどほとんど読めないに等しいくらい物語を読むのが苦手。書くのは頭に降りてくるものを単に言葉に翻訳する作業でしかないのだが読むのは、『理解』が必要。この点で読み書きって決定的に異なっていて、読みと書きの間には信じられないくらい隔たりがある。なので小説も全く読まない(読めない)。この苦手意識が一種の文章恐怖症になりかける寸前で、意を決して『読書が苦手なら朗読すればいいじゃない』と音読療法?を行ったところこれが個人的にヒットし、朗読を趣味にまで昇華させることが可能になった。読んで意味不明でも音読すると意味が掴めたりする、朗読趣味と廓漫画を読んでいたお陰で脳内江戸と脳内新町が形成されており、時代物を見聞きするのにだいぶ役立ち、江戸か大阪の新町さえ出て来てくれれば『あああそこかあ』と合点出来る程度には通じている…と思いたい、音読というのはそれ位万人に響く。

 

話を戻そう…人形浄瑠璃義太夫という役割の、無声映画で言うところの弁士であり、この人物が老若男女全てのアテレコする役割の人が居る。義太夫人形浄瑠璃の語り手である。語り手という意味では義太夫は朗読者に近いし、人形という媒体に声を当てているという点ではアニメ声優に近い。アニメの声を一人の人間が全部演じている感じである。声の太い爺さんの義太夫でも娘役もやる、そして主役を張る人形は人形師が三人がかりで手足や頭を動かしている、アニメーターが様々の段階でみんなで絵を仕上げていくのに似ている。

 

古典とそうでないものとの間に広がる決定的な溝の正体は時間である、人間は自分の知らない世紀を前後100~150年くらいは理解可能なんじゃないかと私は思っているが、それより先や後に行くのは他人の想像力を借りなければならない。第一私は江戸を知らぬ、私は大阪を知らぬ、私の血縁者には…古好みというか人形浄瑠璃あるいは歌舞伎という古典芸能ものを敢えて見るという人間は皆無であった。そんなけったいなものを見るくらいならカラーテレビで時代劇を見たほうが迫力があるし今風だよね?そう考える人しか血筋に居ない、そんなわけで遠くに暮らす祖父母のうち片方は時代劇は観ていた、なので時代劇の雰囲気というものは…まあなんとなくはわかる。それにカラーテレビと現代用語でチャンバラをやられると現代人には映像的にも意味が解りやすい。しかし古典芸能となると…人形浄瑠璃は1700年代くらいからか?つまり200~300年前の言葉や音調という事になる、それが私にはもうわからないし、当然、祖父母世代にもわからなかっただろうと思う、一人一人の人間の持つ時間というものはかなり短いのだ。稀に冒頭に記した文豪のように理解という意味での所有時間の長い人間が存在する。そういう人間が時代と時代の架け橋となって、沢山の人間が多くの時を体感できるような作品を残してくれるのだ。

 

けれども無意識的に身体に沁みついている言葉の音色というものが私にも内在していて、それは確かに三味線に合う音色なのだ。日本語のイントネーションは赤茶色というか、ソルフェジオ的イントネーションは大体三味線旋律だ、しかし三味線が入って来たのは日本史的に案外『最近』であるので、このイントネーションすら『新しい』ものである可能性がある。もっと古い楽器に合う言葉や語りは本当に古語なのだと思う。金属が入ってくる以前の言葉なんかは…個人的すぎるたとえだがもっとこう、青緑色な気がする、アイヌ語なんかは古語の一種だろうなあ。

 

人形浄瑠璃に何故唐突に関心が湧いたのかというと…とある博物館が閉館になる(実際にはただの移転であった)という知らせを(第六感的に)受け、無意識的に画像検索したところ一体の人形に目が釘付けになった。それが浄瑠璃人形だったのである。この人形生きてる!!お客さんというものを肌で知ってる!!そう思って善は急げとばかりにその人形の独り言という形式の語り文章をこのブログに書こうとしてみた…が、そういえば人形浄瑠璃自体を知らない事にも気が付いた、浄瑠璃人形というキーワード自体をその時、つまり一週間くらい前に知ったのだ。さすがに『現実的に過去に存在していたもの』を題材に『その設定自体を完全に完全に完全に無視して語りポエムを書く』のはちょっと気が引けるなあと考え、半ば仕方なく人形浄瑠璃の映像を見るに至ったのである。※当の浄瑠璃人形自身の独り言の詩はまだ書いていない。それと入れ替わりに↓

【短編小説】 浄瑠璃人形花鈴奇譚 ※江戸時代イメージ小説 - 創作文章 獏の骨これを思いついたので書いた次第である。

 

古典になかなか親しみが持てないのは、それが古典だからである、元々は単なる弾き語りであったものに敢えて、もっとわかりやすいようにと人形を(むしろ人形の方を声に当てている)出したのだろう。人間は人間ではないものに対して親しみを持つ。人形劇は心の中の子供のままの部分にダイレクトに響く。これ、当時は本当にどんな階層の人であれ楽しめたんじゃないかと思う。でもまあ言葉や時代、そして江戸という場所が焼き尽くされてしまってからは決定的に『古典』になってしまったのだ。

 

物事は過去に遡るほどわかりにくくなり、そのわかりにくさ故に神格化する。古典というジャンルがなんとなく鼻につくのは、それが流行していた当時は何の屈託もなく楽しめたであろう娯楽だったのにもかかわらず、今では敷居の高いものに『成り下がって』いるからだろう。一人の人間では感知しにくい一世紀以上時間経過した娯楽はすべからく古典となる、萌えアニメとかも数世紀後には完全に古典化するだろうし、台詞の意味の難解さもまた有難がられるだろう。

※私がアニメにあまり共感しにくいのはひとえに女キャラの声が高すぎて、中国の京劇とかの女性が完全な裏声でピヨーンピヨーンと鳴くように話しているあの異文化感、異質な感じを受けてしまうからです。あ、全然アニメアンチなわけではないのだが…どう考えても生理的におかしさを感じるんですよ女キャラの声、この文化、これが数百年経ったら『animationという古典芸能に於ける声優の役割は、声を高く出すことに在る』とか堂々と記されていそう…。でもって超有難がられてそう。江戸時代やら何やらの事前知識が全く無いと人形浄瑠璃は正直わけがわからないし退屈だろうと思う、それに伝統芸能特有のかしこまった窮屈さも感じる。本来はアニメやゲームと同じだったと思うのだがね。

 

時間がたってしまったものを追う、それでも、ここまでこき下ろしている割に(そんなつもりは無いのだが)これからも人形浄瑠璃は(DVD化されたものくらいは)観ようかなと思っている。その理由は…

 

①個人の体感時間の幅が増えるから…元来100~150年程度しか文化時間的理解が出来なかった人間の理解時間が300年(倍)くらいに増えたら、誰でもそれを面白く感じると思う、おそらく外国語を好きな人も個人の地図を広げようとしているのだろう。それと同じように私も時間地図を広げようとしている、まあ古語なので…ラテン語が解るようになった人と同じような体感を得ているのかもしれない。

 

義太夫一人が性別や年齢に捉われずすべての声を演じているという点に非常に強い好感を持つ&朗読の勉強になるから…アニメの女声優の作り声にうんざりしている身としては、声高すぎて大昔の『電話に出る時にだけ裏声を使う婆』みたいな滑稽な文化をね、撲滅したいんですよ(※主観的意見です)。こういう抑圧の文化で不必要な性別区分が生じると思うのだよね、男性側もね。それだけじゃなくて一人の人間の中に萌えキャラも居ればクソ婆も居るし老衰し過ぎて枯れ木のような爺さんも、横暴な若者も、聖者のような青年も、朴訥としたオッサンも、とにかく万人が宿っている気がするのです。だから一人が全員の声を演じるという手法はジェンダー問題的にも朗読手法的にも非常に為になると感じている。

 

念のために言うと人形浄瑠璃で今見たのは『冥途の飛脚』(※ネタばれ…人形浄瑠璃の話でネタばれをするのが困るという人がこれをお読みの方に居るとは思えないので書いてしまうが、かいつまんで言うと公金を扱う企業に養子縁組されて働く若者がホステスにハマって公金をつぎ込んだ挙句ついに逮捕される寸前で実の親に会いに行く…という愛の逃避行のお話。素敵だね、現実にはやりたくない事を人形が演じてくれる。私はこの話を観て、財務省に努める人間が下着泥棒をしたという去年あたりのニュースを思い出した…名付けて財務省パンティー泥棒、これが人形浄瑠璃になったら面白そう。人間の理不尽な仕組みとそれに対する抑圧感情を一枚の下着に込める泥棒男の物語、それをかわいい浄瑠璃人形+凄腕の人形師が演じてくれ、超人的肺活量の義太夫が渾身の台詞回しを聴かせてくれたら案外泣けそうな気がする。)…話がだいぶ逸れたが冥途の飛脚、これだけである。一人の人間が大勢の声を演じ分けるのは落語も該当しそうなので落語も聴く予定である。