創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

【散文詩】 クリソプレーズ(緑玉髄)の招き

 

 

 

 

手にしたクリソプレーズの研磨石は土産屋で売られていた当時のままに耀いている、珪藻類の歓喜の色か、はたまた魂の色なのか…緑という色は生命を超えて死をも表している、あの時のダムのように。

目の前に内部から輝くような緑色の水、抹茶のようでもあり、両手をお椀型にしたら掬えてしまいそう…その時の私は山に囲まれた真昼のダムを望む駐車場の手すりに身を乗り出し、うまく調節の効かない幼児自身の我が身を、ついに乗り出し過ぎて途方もなく巨大な貯水池に頭から…そう、再び母なる水の中へダイブしようとしている真っ最中にその緑玉髄とも見紛うダムの色に見とれていた。

「青々」と日本語では緑を讃える言葉として青を使う、でも実際は発光するような真緑であればあるほどに青と言う。ほんとうに青い水を何と例えるのかを海に囲まれた我々は知らない。

父親が駆けつけてきて娘である私を無我夢中でむんずと掴み、転落事故を未然に防いでこの世に引き戻した。今思うとあれは私なりの自殺だったのではないかと思う。生きているのが嫌になったというほどの理由も自我も無い子供ではあったが究極的な地点では常に『還り』たがっていた事は確かだ。幸福でなかったわけでもない。しかし幸福というものは自分と究極の俯瞰視点が連動した時に体感するものであるから誰でもそれなりに幸福で、この点では誰でも死ぬまで神様と過ごしている。ただ私自身に於いてはこの世の水よりもあの世の水を欲していたというだけの事。

「俺もあの時死ぬんだと思った」父親もそうだったのかもしれない、とはいえ単なる家族ドライブで家族の三分の二を失って一人きりになる苦悩を我が母親にさせなくて済んだことを心から感謝する。日常には、唐突に死を体感する瞬間というものが時間と時間の境目にあって、それは存外綺麗な緑色をしている。

だから死はいつも生命の色をしている、和名を緑玉髄、まだ持っているこの石を見ると父親と私を飲み込もうとした人工池が、今でもぽっかりと大きな口を開けて待ち受けているような気がする、今度新緑の季節になったら山奥のダムにでも行ってみようか。