創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし) 死骸に呼ばれる事 墓守という役柄

 

 

 

春と言えば動物の死骸の季節、ああそろそろ私の死骸処理コレクションにまた新たな一品が加わる季節かあ☆…と思っているとやはり川辺でドブネズミのガンバが頓死しているのを発見、懐かしき学芸会の思い出よ、あ、コレクションと言うのはもちろん心の中のデスクトップ画面に陳列されるだけであって実際にはすぐ埋めますよそこら辺に、このシマ(縄張り)のイタチの統領にでもやられたのか心臓を抉り取られている奇妙な死に様だがどう見ても対動物の死因なので検死は簡潔に済ませ、土手の茂みの土を掘って軽く埋める、実はガンバの死骸を発見する前に普段変死動物を埋めるのに役立てている雑木林に呼ばれ、ぐるっと一周してきたら以前埋めた白鷺の白ちゃんが見事に白骨化しているのを見た、土も結構かけたはずなんだが食い荒らされたのか羽も散らばっている、冬季は動物たちにも腹の減る季節らしく他の季節ならば放っておかれる亡骸は冬場は貴重な栄養源と化す、まあこっちも別にいわゆる「お墓作り」をやってるわけではないのでいいんだけれども、それでも民家も近くにあるのであんまり謝肉祭っぽくならないように配慮するためにも土中に埋めてるのだが…死骸に慣れてくると特段気持ち悪いとも思わないし鳥は好きなのでむしろとてもかわいいから観察出来てラッキーぐらいな感覚なのだがネズミはちょっとキモい、しっぽがそうさせるのかなんか反射的に度々悪寒が走ったが慣れとは恐ろしいもので軍手越しなら普通に触れる、ネズミを気色悪がるのはおそらく人間の本能からだろう、それこそ疫病やら穀物食い荒らされたりとか、こいつらに気をつけてないと人類が圧制されてしまう、某ミッキーマウスのせいで著作権の期限が野放図に伸びているのもやはりネズミVS人間の縮図だろうディズニーいい加減にしろお陰で文化的進歩が停滞してんだぞこっちは明治大正昭和初期の文章しか朗読出来ねえんだよあのクソネズミめ、と罵っていてもはじまらない、土の中にガンバを軽く封印してから立ち去る、死骸はやはり新しい。

 

ゴミ拾いのときに感じるのはゴミがあるよというあの信号を植物が出しているのではないかということだ、私は基本的には大通りを幾本かチョイスして曜日別にやっている、だからこっちの感覚では一つの場所については一週間に一度見回っている×そういう場所が何か所かあるという事になっている、その時に木々の声を聴くことがある、はじめのうちは植込みの木が驚いている感じがした、まあここまで来るとかなり主観的な話なのだが…木というのは両隣の木と連鎖してかなり遠くまで信号を送っているように感じるのだ、街路樹の植込みに触れてゴミを探ったりしていると私の事を何らかの現象として木々たちも感知しているのではないかと感じたりすることがある、通りに行くと、ゴミの気配みたいなものがあって、ここだよ!と端的に教えてくれている『感じがする』、木々たちは今はもう私に慣れている気がする、動物の死骸に関しても樹木及び草が何らかの信号を出しているのではないか?その信号を感知した動物は死骸を食べに来たりするが、食べるわけにもいかない死骸に関しては人間(私)にまで信号が伝播する自然的な仕組みがあるのではないだろうか、特に動物の死骸に関しては確率的にも発見が最長一週間後になる可能性だってあるのにいつも翌日くらいには出くわして埋葬することが出来る、春や夏であっても私は腐った死体に出会ったことが無くいつもとれたてフレッシュな死骸との出会いを体感している。

 

少し前とある大通りを独自清掃していた時に声をかけてくれたご婦人がこんなことを言っていた、「以前にもこの通りをやってくれていた方がいたのよ、でももう10年くらい前で、その時にその方は…今の私よりもだいぶ年上だったから…あなたもしかして以前ここを清掃されていた方の、お知り合いか何かかしら?」全く違うと答えて彼女の労いに頭を下げたが私にも思うところがあった、というのも幾年か前にこの土地に越してきてから半年ほど経ってから、妙にゴミが気になりだしたのを覚えている、その時に自分でも謎の逡巡をした、ゴミを拾うべきか拾うまいか迷ったのである、私は今まで習慣としてゴミ拾いをしたことは無かった、確かに子供時代から動物の死骸は見かけたら片づけていたとは思うがそこまで見かけなかった、ここに来てから奇妙なほど死骸やゴミに出くわすのを自分でも不思議に思っていたのだ、この土地は私にとって今まで住んできた中でダントツに綺麗な場所であったので生まれて初めてゴミと言うものをまざまざと認識したのかもしれないし、これまた生まれて初めて庭を持って土地や土を綺麗にすることの歓びを知ったせいかもしれない、そしてまた夜寝る時に何者かが上部を通り抜けて行ったりドアの入口付近に立っている『気がした』、幽霊を見たのは人生で二度ほどだが、あの『見た』感じとはどうも異なっていた、別にそれが件の、以前にゴミ拾いをしていた老婆と思しき特定の人物だとは言わないが、ゴミ拾いに関しては厳密にこれという動機?もなく引き寄せられるように配置につかされた感が否めない、もともと地球環境的な意味で罪悪感の多い方ではあるけれど…なんでゴミ拾いを何年もやってるのかと聞かれてもそこにゴミがあるからとしか言いようがない…もとよりこの土地は古墳地であるので土地の効力として必然的に墓守が選別される仕組みになっているのかもしれない、人間は人間が思うほど個の意志など無いのではないか?

 

ふと考える、私は寝たきりになる予定は毛頭無いので杖を使って痛みを調節?しながらゴミ拾い運動をしているけれどもそれでもいつか死ぬ、永久にこんな賽の河原みたいな事をやってたいわけではない、私が死んだら真っ先に気になるのはゴミ拾いの事だ、死んだ私はそれでも生きていてこの地域一帯を来訪し続け後継者を探す、人が夜眠る時、一番冷静沈着になる瞬間を狙って語り掛ける、だが今現在私は何となく感じていることがあってどうやらもう後継者はいるみたいなのだ、居るというか在るというのか…別にそれが特定人物を指しているわけでも何でもなくって、単にゴミ拾いというプログラムが作動するように電源がいつも入っているという感じ、学芸会で演劇をやると決まったら後は配役、誰がガンバをやろうが別に構わないが学芸会の開催自体は決まっているのだから私が憂う必要が無いみたいな感覚だ、もう主観的過ぎて一から十まで妄想の一言で片づけてもいいんだけど、でもやっぱ人間ってそこまで人間だけの世界で生きているわけじゃないんだよとすごく思うのも事実だ、清掃し終わったあとの川はキラキラ瞬いているし、臆病な白鷺もゴミを片付けた後は突然岸辺に舞い降りてきたりする、菌類や珪藻といった普段目に見えない生き物も確かに存在しているどころか世界の大部分が人工以外で構成されている、動物の死骸も触るとそりゃ汚いんだけどアスファルトの上に放置すると菌類が集まれないからなかなか分解されなくて結局みんなが困ってしまう、なるべく草や土の合間に隠してあげるのが土にも栄養が入って良いと私は考える、けどこの考えているところの私は本当に私なのだろうか?木々の声や信号現象を感じながら私は思う、あつらえたように動物の死骸に出会うと強く思う、自分は自然によって墓守という役柄を命ぜられ、それを喜んで引き受けたうちの一人に過ぎないのだと。