創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし) 生きることについての罪悪感

 

 

 

生きることについての罪悪感が強いからゴミ拾いしているのだろうかとも思う、この宿命的な罪悪感は人類共通のもので人間が必要以上に獲物を捕獲しはじめた頃ぐらいから、この罪悪感昇華のために宗教的概念が培われたのだろう、とすれば『汝必要以上に殺すなかれ』を侵害しはじめたのはたぶん人類が肉や穀物を保存しはじめた頃からだろう、その頃から日々の祈りがなされるようになり、農耕が始まってからは生贄を捧げる事態にまで罪悪感は発展していった…ここまで来ると罪悪感は歪んで不自然になる、だが殺すという自覚があって尚余計に殺さなければならないという状況が人類をそうさせたと推察する、殺すというのは侵害するということであって暴力行為もここに当てはまるとは思う…ただ、侵害概念をどの程度人生に当てはめるかでその人、もとい集合的人類意識に生じる罪悪感度合いが決まるのだろう、私は罪悪感が強いが個人的というよりも人類的な罪悪感が強い。

 

そうは言っても、たとえば性行為については合意の元であれば他者の侵害にはあたらないと私は直感的に考えているので個人的にここには『全く』善悪を当てはめてはいない、風俗行ったら悪人か?否、男と寝たら悪人か?否、買春した奴は悪い奴になってしまうのか?否、婚姻以外で性交したらみんな悪魔になるのか?否である、じゃあ人を悲しませたら全員悪魔か?否である、想いが変化したら悪か?否、しかし暴力行為を以てレイプした奴は悪鬼であるのでこれについては罪悪が生じて然るべきである、日本神話を見るとスサノオが天照のお抱え機織り娘の陰部に機織り器具を突き刺して殺してしまったがゆえに天照が岩戸に隠れて、世界中が真っ暗になったというくだりがあるが…所説あるだろうが私はこれはレイプや暴力的性行為のタブーを示した話だと感じている、話を戻そう、罪悪感情には出来る限り蓋をしておきたいものだが生きる上でどうしても殺しをせざるを得ないしこれからも間接的に殺してゆく事について、しかも多くを殺してゆく事や見殺しにする事についての罪悪を考えた時、人間全体は逃れきれない罪を感じてしまうものだ、ただ…人類の歴史の中で歪められてきた罪悪感について、それを儀式等で清め蓋をすることを人類の歴史の中で加算してゆけばゆくほど…人間は狂ってゆくと思う、この根源的な罪悪感を思うと私は幼いころから身震いしたものだ、南無妙法蓮華経を唱えても罪悪感は消えることは無いし、何故人々が笑顔で罪悪感をわきに押しのけて過ごせるのか実は今以て理解出来ない部分がある、自然環境保護だの何だのというキーワードが偽善者じみていて嫌われるのは笑っていたい人々の笑顔を一時的に曇らせるからである、でも本当は違うはずだ…だがこの『本当は』こそが人類の人類たる問題点を含んでいて、これは全く一致しないばかりか争いをももたらす…ように『信じられて』いるので争いが起こる、従属は幸福を生まないがこの種の罪悪感に民族全体で蓋をしてきた我が国の場合、我らの『意見』こそが『侵害』行為であると思い込んで、何世代にも渡って感情や意見の発露についての罪悪感という歪んだものを集団全体でこしらえてしまっている…。

 

ではせめて個人間に於いて罪悪感をどのように昇華すべきか?生きることそのものについての宿命的な罪悪感をどうやって溶かしていったらいいか?この罪悪感を人生で微塵も感じずに過ごせる人というのは信じられないくらい鈍感かサイコパスか、あるいは原始林の中で自給自足で生きている人くらいなもんだろう、罪悪感を感じにくい生活こそが幸福であると私は思う、なので自給自足生活に走る人が一定数いるのはよくわかる、この種の罪悪感が生まれながらに強く尚且つそれについて現実的に対処したいという想いもまた強い人ならば環境保護や自給自足に行き着くだろう、この罪悪感情こそが宗教心の元であると私は考えているのでこういった人たちは必然的に宗教的主観意識も強いと思う、言うまでもなく私もこの手のタイプだとは思うが…じゃあそれを実践できるかというと否で、理由をいくら述べても自分自身で言い訳しているようで腹が立ってくるので言わずにおこう。

 

生きる上での罪悪感を感謝に変えればいいんだよ!毎日感謝しながら生きればいいじゃない!というアドバイスも受けるが感謝感情がこの物理的現実に於いて感謝の物理現実的作用を感じにくいのも事実、感謝や祈りという個人祈祷だけ主観的にやってるのは何だか…わが身さえよければそれでいい的な雰囲気を放っているように感じてしまう、昨今のスピリチュアル風潮然り、言葉の上でだけ綺麗なことを言うとか、毎日感謝とか、これをお読みになったアナタに平和☆みたいな言葉を平気で放つ人間について信じられないどころかかなりの疑心暗鬼の念を抱いてしまっている、やっぱり物理的に行動しないと他者を愛することの実践にならないのではないか?小さいころから自分が生きていることについて、ひいては人類が我が物顔で増えていることについて心底疑問があって、その罪悪感を拭い去る事も出来ないし、尼僧とかに出家したってどうなるもんでもないのがわかるし、じゃあ国境なき医師団とか国連あるいは自然環境保護や食品メーカーのパッケージ開発部門で環境に優しい製品をじゃんじゃか作り出すような生業で飯を食えるほど頭脳も身体も優秀ではない…ああ現実では何も出来ないんだ、私個人がどうあがいてもたどり着けない地点に罪悪感は在る、そんな風にうなだれながら歩いているとゴミが落ちているのだ、おそらく私と同じように人類について疑問を抱いている人間が捨てたのだろうが私と異なる点は生きる上での罪悪感を体感しているか否かである。

 

ちなみに私が感じているこの罪悪感は人類全体のものである、大仰に言ってるんじゃなくて誰でも程度の差はあれ感じているはずだ、だからまあポイ捨てされたゴミって言うのはゴミ拾いする視点に於いては人類がやったことの尻拭いを人類がしている行為であるので、ポイ捨てが人類のやった事であるならば、それは包括的な意味では私が捨てたものであるとすら言えるのだ…でもこの言葉通りに第三者に言うとまるで私が人類賛歌を歌っているように受け取られてしまうのであらぬ誤解を生む、むしろアンチ人類なのだ、なので私は、何故ゴミ拾いするのかと聞かれたら簡潔にこう答えようと思う、これが一番、(自分や人類が)生きることについての罪悪感を振り払う事が(個人的物理的に)出来るから、と。