創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし) 機械の死

 

古来より家に奉られてきた我がデスクトップパソコン氏がついにご逝去あそばされた、不可思議なのは、直感的に「彼はもう死んでいる」と察している事だ、でもモノでございましょう?モノが死にますか?通電すればまた蘇るのではないですかと理性は私を諭すが私は素直に頷くことが出来ない、だってこいつもう死んでるんだもん通電しっこないよと言い返している、幾日か前から使用中に唐突にシャットダウンするという現象が起きてはいたが、そもそもこのデスクトップパソコン、もうかなりのご高齢で元々半自作PCであり一度それをさらに大手術した代物である、私がこさえたわけではないのだがそこいらのデスクトップパソコン以上の馬力を誇るという事はわかっていた、彼と家の増強済み記憶装置とが結ばれた時の喜びは言葉では言い表せない…なんてことはなく、去年気の狂うくらい試行錯誤を重ねたYouTube編集だとか音楽(グレゴリオ聖歌etc.)を散々ぶち込んだり、そういった耐久力やエンジン出力関連に於いてその強さは実証済みであった、彼と重さ1キロのキーボードを結合させていると何の躊躇もなく打てるのでタイピング作業も捗った…このブログの大体半分はこの故デスクトップ氏を使用して書かれていたのだ…あっそう…このような事実を誰が聞かされても全く有難くはないだろう、即ちこのような全く非生産的作業に彼は丸10年以上も毎日従事させられてきたのである!魂が個別進化を遂げるならばこれほど無益な労苦に機械の一生を費やすとは、彼は一体前世にどんな悪行を働いたのであろうか?まったくもって因業とは恐ろしいものである…話は戻るが「こいつはもう魂抜けちまってる、仮に無理やり通電させたとしてももうまともには動かねえだろう」と何故、自分は感じているのかという謎、これは本当に不思議だ、物が壊れたときというのは生き物が死ぬときと酷似している、自分が死ぬときもそうだろう、確実に「何らかの質量が減っている」のである、じゃあその質量ってどこ行ったのさ?デスクトップ氏よ今いずこ?

 

ちなみに私に使用許可の下りているPCは二台ある、故デスクトップ氏とノートPC女史だ、デスクトップ氏が男なら、ノートPCは女性である、この女史は去年宅録関連で購入した、元来文章書きにはこっちは使いたくないのだデリケートだからね女性は、内臓されているボディーをタイピングするのってお腹を叩いてるみたいでちょっと罪悪感ありませんか?録音に使うのであまりUSBの抜き差しもしたくないのよね摩耗するし、彼女をそこいらの電車内で化粧するような垢ぬけない女と一緒にしないで頂戴っ、バカスカとコードの抜き差しするような娼婦じゃないのよそんなのは恋じゃないの、育ちもいいし仕事も完璧にこなす女史なのよっあんまり接合部に乱暴しないでっ、然るべき相手(録音機材)と慎ましくデート(録音)する彼女(ゴールド色のノートPC)の気品を例えるなら…以下略、話を戻す。

 

ゴミ拾いに於いても、ゴミという物を私が直感的に「死んでいる」と感じて拾い上げているのであって、どう考えてもまだ「生きている」物は拾わない、無意識の取捨選択に魂の質量が関係しているのではなかろうか?私は脚が悪いだけでなく目も悪いのでゴミを何で選別しているのかというと実際には「色」である、人の顔も何で判断してんのかというと「色と動き」である、だから湧き水が噴出してるあの気配にも「あっ人だっ」という判別が起きてしまうのですだって動いてて尚且つ色があるんですもの、えっ?水に色は無い?そうなのだ実は水には色が無い、だが色はある、この色というのが本質的には「質量」を示すバロメーターになっているのではないか?石も生きている石とほとんど色の無い石がありますねえ、そして私見たのです、デスクトップ氏が唐突にこの世からのログアウトを繰り返し始めてから数日経った本日、彼の鼓動測定器でもあった本体側面部に穿たれた内部温度計液晶部分の「色が消えていた」んですよ、消えてるんです、「あっもうこれ死んだな」とわかったんです、動物が死んでいたり、植物が完全に枯れているときってどんなに疎くてもわかるじゃないですか、彼とはこれでも個人的な到達点に幾度も同伴した仲だ、そこに(心の)山があるから登り、そこにゴミがあるから拾う(それを書く)仲、よっしゃああこれは私的にK点越えだぜ~!!と、スキーストック代わりに杖でハイジャンプをキメている主観的状態を完全なる個人的小説執筆に於いて楽しんだ(書いた)仲である、こんな風に人間社会に数値的にもほとんど観測されず、よって存在したと言えないほどの瞬きを、それでも彼は生きたのだ…私は思う、飛行機事故番組とかでも一粒一粒の乗客の死って割とどうでもいいんだが飛行機は飛ぶという機械的本能にとても忠実であるので機体が捥げたり木端微塵になるほうが可哀そうに感じる、生と死を考えると、もしかして個人というのもある地点までの幻想であり、無機質というのもある地点までの幻想ではないのだろうか?そんな風に思えてくる、全てが…無くて尚且つ在るという状態で混ざり合っている地点があるのではないか?私自身も昔より「薄らいでいる」のがわかります、わかっていますともこれからどんどん「曖昧な」状態に移行していくのも、完全にこの世から抜けきった時にかつてのデスクトップ氏存在の一部と邂逅出来たりするのだろうか?あまりに乗ってる状態でPC触ってる時も物理世界という場所からどっかに抜けきって飛んでってしまう感覚で勝手にシャットダウンしたりするよね機械ってやっぱり生きているのでは?湧き水は完全に生きている、有機物の死があるように無機物にも死はあると体感している、少なくとも主観に於いては…機械の死はある、故デスクトップ氏の魂はもしかするとこの物理世界に於いてはエネルギーとして、何の不思議もなく庭の土の活力の一部になったり、若木になったりしているのかもしれない、何はともあれ我が故デスクトップ氏よ、我らが無益な骨折りに長年付き合ってくれたことに心からの祝辞を送る、誠にありがとうございますまたどこか、三次元空間とは別の場所でお会いしましょう、旅立ちに乾杯!