創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

【散文詩】死んだアイドルの歌うのを見ている

 


ピンクの衣装に身を包んだ死んだアイドルの歌うのを見ている、花吹雪、春よ春よ永遠の春よ、もういい加減集中力も尽きて今朝、仕事部屋を出て管理人の据えた自販機の前でささやかな運試しをしていた時だった、見覚えのある後ろ姿が二重に連なって歩いてくる…僕はそれを見続けたんだ僕は息を止めてコーヒーを買うのも忘れて何らかの臓物が冷えてゆくのを感じながらそれを見ていた、エイプリルフール未満の桜並木がこの世のものとは思えないくらいに真っピンクの吹雪をアパートに送ってくる、食べたくもないカレーライスを大盛にされたみたいな気分だ、要らないんだそういうのは彼女の事はもう別に気にも留めていなかったし思い出しすらもしなかったよ第一にそんなに暇なご身分じゃないんだ、言葉では何とでも言ってしまえるが僕はコーヒーをの代わりに息を飲んでやり過ごした、いくつもに区切られた瞬間の一つは落胆し、別の一つは天邪鬼めいて僕に唆す「声をかけてみろよ、あっどうも、ひさしぶりだねー、もしかして…旦那さん?って声かけてみろよあの女が狼狽えるのを気のすむまで観察出来るぞ」、別の一つは僕を諫めた…僕にだって好きな人くらい居るし約束を果たすべき役割を担っている相手だって居る、人間はそこまで単純明解な生き物じゃないんだ、現に今だって僕が知らない男と彼女の通り過ぎるのを首の後ろ辺りで凝視しているっていうこの事自体がその証明じゃないか…君は僕の事を好きだったんじゃないの?こんな言葉をよく言えたもんだよ、心変わりを責める筋合いは無いんだから、皆無なんだ付き合ってすら居なかったんだから、それどころか食事すらしたことが無いんだから、わかりにくい相愛をわかりにくい形で紡いで心底こんがらがって互いに無視しはじめてから彼女はそれを毛糸でも断ち切るように冬が過ぎたから捨てたんだ、この毛糸球にいつまでも温まっていたのは僕だった、いつまでも僕の事を好きでいてくれるんじゃないの?いつまでも陰から応援していてくれるんじゃないの?なんて聞けるご身分じゃないんだわかってる、わかってるって、君から愛されている事を暗に感じ暗に伏せ手も触れない清らかな間柄を保ったのはこの僕だ、コーヒーは当りが出て二本分の水分を持って僕はようやく振り返った、始まってもいないんだから存在したとはいえないほどの淡い想いが終わったと言いたいところだけど、死なない限り終わりはやってこない、きちがいじみたどピンクの静かな喝采の只中を二人は一種のアイドルと化して頬を寄せるように心酔して歩いてゆく、彼女の頭にくっついた花びらを摘まむために男が顔の向きを変え、同時に無意識的に振り返った…第六感が発達しているのは実は雄の方だ、僕はコーヒーたちを抱えたまま仕事部屋に引き返した、永遠の春を生きる死んだアイドルはまさに部屋の中で今僕にウインクする、君の事なんてそんなに好きじゃない、いつまでも変わらないでいてくれる存在は死んだアイドルだけだけど、君の事なんてそんなに好きじゃなかったんだ、アイドルに微笑まれる毎に僕は、僕の事をずっと好きで居続けない女への謎の怒りとそのことへの呵責を感じながら心を切り替えられるまで否定し続けた、認めたくない失恋の数分間、気を紛らわすために…ピンクの衣装に身を包んだ永遠に変化しない死んだアイドルの歌うのを、ただ茫然と見ていた。