創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし) 個人的な善を行うには嘲笑に対しての忍耐力が必要だ

 

 


年明け早々にゴミ拾いをしていたら「ゴミ拾い、汚ねえーーー!!!」と自転車乗りの野郎にあからさまに暴言を吐かれて嘲笑された、死ねよポコチン野郎金玉ぶっ潰すぞお前みたいな頭の足りない屑が子孫を残す前にその無駄な精子製造機を杖で突きさしてやるよ…とか言い返す前にもう通り過ぎているわけでどうしようもない、歩いていてすれ違いざまに主に男に悪口を吐かれるのは時代や地域を問わずに起こる現象なのではないか…こんな現象やだけど、いやもういいんだよ対面して堂々と何か言ってきたりいちゃもんつけてくんのは、女の割に特段、喧嘩を別に避けたいとは思っていない方なので言いたいことあるなら言えよ童貞(あるいは精神的童貞)、といつも思ってるけど実際言ってくるのは自転車乗った奴らで通り過ぎ様なんだよね、女々しいってこういうことだ、トラック乗りの方々よ、こういう奴轢いてくれない?轢き逃げてもいいよ私が許す。

 

見た目でわかるほどの世の中の少数派は嘲笑されやすいもんだなと、杖をつくようになってから感じている、これってさ…平均的という意味で普通、に該当しないか除外された人間に対して、誰かを攻撃したがってる野郎が全体生命に促されて暴言吐くパターンでしょ、確かに杖ついて場に佇むと空気変わってしまうしそれを敏感に感じ取られてしまうし最早女というカテゴリーに入っていないので男の暴虐を受けやすい、暴力には至らないように向こうも抑えているらしいが目の前でわざとらしく痰を吐かれたりとか増えたよほんと…女は基本的に喜怒哀楽を伏せる本能があるので嫌悪はしても暴言は吐かないしいきなり怒鳴ったり殴ったりという猿みたいな真似はしてこない、よしんばしてきたとしても争えるんだが…男は本当に暴力の意味で瞬発力が凄いので厄介かつ意外なほど女々しいので勝てる相手にしか喧嘩をしかけてこない、当方女とは分かり合えず男のほうが接しやすい感覚を持っているので男ってイヤ!という気持ちでいるわけではないし、男全体が馬鹿と思っているわけでは決してないと断っておこう、だが雄という生き物に対して決して気を緩めてはならないのだ、男の内100人中100人が暴虐な衝動を宿しているのもわかってるんだがそのうち99人は自制心を持っている、でも100人中1人くらいの高い割合で運動神経と現実的な暴虐性を併用可能なクソ馬鹿が潜んでるんだよね、その非生産的能力何なんだほんと、よって馬鹿野郎は我が永遠の敵だ、そして馬鹿野郎からの嘲笑がきついのはそれが暗に大多数の意見を示していると察してしまうからだ。

 

第一に大多数の人は嘲笑など受けない…

 

私も杖をつくまではこんなことなかったんだけどな、と思うと何とも哀しい、前の自分が、すれ違いざまに悪口を吐かれるなんてのを愚痴ってる人を見たら内心疑問に感じたかもしれない、この手の話をすると妄想じゃない?って逆に心配されそうだし、人の吐く言葉に異様に敏感な人っているがむしろ後ろ指指される存在である、被害感情を表す人にほど被害感情をほとんど受けたことの無い人間は同情しにくいかもしれない…とはいえ何だかんだ常にアトピーだのニキビだのをやってきたので人と違うし人より汚い(綺麗な肌の真逆)ってことに関して他人が嘲ってくるのを感じないわけではなかったわけで、肌が完治?してからは本当に世界がきれいに見えたもんだ、みんな優しい!と驚いてたよ三十過ぎてからは、綺麗な人や健康な人の見る人間世界はこうも優しい穏やかなものなのかと脱力すらしたよ!個体として強い奴の見ている世界って幼稚園時代並みに易しい(優しくされるし嫌悪されない)よ、こんなに過ごしやすい天国だったとは思わなかったと感じながらしばらく健康状態良好な世界を楽しんでいたが…その天国状態は長くは続かず今度は三十路半ばにて杖歩行、また同じ地獄に逆戻りというわけだ、渇いた笑いを発せずに居られようか。

 

しかもその地獄は私が独自清掃してきた場所なのである、天国と喩えた場所なのである…杖が珍しく、尚且つゴミ拾い自体が珍しかったのだろう、みんな一緒でみんないいって思考回路で生きてきた人なのだろうし、本当にこのまま高齢者になってくんだろうなとも思う、現に高齢者でも指さして大げさに笑ってくる人居るし、電車でも杖ついてからは私の隣に敢えて集団のうち誰も座らないとかもザラ、ゴミ拾いに関しては大多数のやらないことをやってるってのはある意味場違いな事で、場違いなことをやるなとずっと言われて育ったのならば人と違う人を見て思わず笑う反応に至るのはわからんでもない、少数民族がジェノサイドに遭うのは違ったことをやるなという文化教育がもたらす負の一面だろうな、みんなと同じことをみんなより秀でて行う…これを四六時中考えてるんだからフラストレーション溜まる仕組みになっているよ、でこの枠の外に居る人なんかは弱さをこれでもかと指摘され、その指摘はやっぱり人間尺度的には的を得ているわけだからそりゃあ引きこもりにもなるだろうよ。

 

大多数的に見て自分が劣っている場違いであると自覚のある場合嘲笑は発した人はおろかそれを受けた人にとっても正当性を持つ…だけどひとつだけ重要な事を感じさせてくれるとしたらそれは、善っていうものの在り処についてだ、嘲笑を恐れると究極的には傍観者にしかならないし下手をすると嘲笑を発する人本人になってしまう、どの宗教思想どの国籍どの人種ひいてはどの生物に於いても機能する自発的行いを善と仮定すると、個人的な善を発するにはある程度、嘲笑に対しての忍耐力が必要になってくる、キリスト教に於いては十字架や茨の冠には嘲笑の意味があるわけだから、痛みや嘲笑を受ける側の人を正当化する唯一のシンボルとして機能しているってこと、そして嘲笑を受けてもそれでもやらなきゃいけないと感じた事はやったほうがいいのだ…笑われることを恐れて何かをしないでいるってのは結構不幸なことですよ、嘲笑を発する人や、キモイとかをすぐ言う人はこの恐怖心の赴くままに口が動いてしまうのではないか?いや全然同情してないんだけどトラックに撥ねられたほうがいいよそういう奴らと思ってますよ本当に。

 

劣ってる奴が偉いとか場違いなことしてる奴がすごいとか思ってるわけじゃない、劣ってんのもダサいのも事実、場違いな事してんのも事実、じゃあ場にそぐう行動って何よポイ捨てか?という疑問も残るが本当に思ってるのはこれ、人の事見て笑ってくる奴、笑うなら堂々と対面して笑え!これだけだ…嘲笑される人の拠り所はイエスキリストくらいしか居ないけど、嘲笑する人や傍観者、そんな目に遭ったことないので笑われる人に対して懐疑的な人々…大多数の人にとっての拠り所はなんだかんだ言ってこの漠然とした社会ってものなのだろうかとも思ったりする、重箱の隅をつつくようで悪いんだけど敬虔なキリスト教信者でも、十字架を見て実際的な嘲笑の苦しみをそこに見出す人なんてほとんど居ないんじゃないの?嘲笑の神秘って遭ってみないとなかなか、被害妄想的に見えてしまうと思う、この意味に於いては私は悪いのだ、何を以てして神秘なのかというと先に述べた善という概念もまた実際の嘲笑によって非常に具現化するからだ…抽象的な話じゃなくて現実的な事として何が善いか悪いか身に染みてわかるから神秘なのだ。

 

だって悪いことをしてる奴に対して嘲笑する人って居ないよね?ポイ捨てを見て笑えるか?誰も笑わないと思う、強姦も強盗も笑わない、でも序列を気にする人間にとって一番きついのは笑われることである、弱くて滑稽だと言われることや偽善的な事…私も一応女であるので好きな人の前で嘲笑されたら死んだ方がマシという感じの人間的乙女心?はある、男でもきついよなあ好きな女の前で一方的に嘲笑を受けたら怒るし凹むよなあ、私もこの件について書こうか書くまいか数分悩んだくらいだ、書かなければ私は女として何かが保たれる気がしたから、書いてしまえばはいお仕舞い、序列を気にする人から見たら「あ、そういう恥ずかしい目に遭う人なんだ」と軽んじられたり疎んじられたりするのわかるから。

 

大多数の人間の願う幸福っていうのは痛みを避け、嘲笑を避け、安泰である事だろう、およそ古今東西老若男女の感じるラッキー現象に嘲笑は一かけらも入ってない、人から尊敬されたいし人間扱いしてほしいのは人間の宿望である…けどちょっと思ったね、幾年ウン十年と安泰をやってゆくってのはそれだけ人と違うことをしないってことでもある、私は人間的時間感覚で正月だのなんだのと言ってそれに合わせて過ごすのが疲れてしまうので嫌なんだがもういっそ、個人的な幸福を願うのはやめにしようかなと感じた、信仰の理由(不信仰の理由)から詣でに行ったりもしないしお願いっていうのが重苦しいのでやらないんだけど、今の衣食住さえ保持出来ていればあとはもう、ラッキーを願う必要って本当に無いなと感じた、汚さは忍耐でなんとかなる、犬のうんこもこわくねえがなんなら嘲笑についての恐怖を根本的に取り払いたい、現実で、嘲笑や暴言を受けるとかなりナーバスになってしまうのだがそれを避けよう避けようと個人の幸福を死守しようとすればするほど人間はますます弱く女々しくなってたるんでしまう、もういっそ毎日言って来いよ嘲りの言葉を!!慣れてやるから!!!(ある日ブチ切れて暴力沙汰になりそうだが…それでも嘲笑に対する忍耐力を養って何も感じなくなりたい)と、すれ違いざまとは言え現実での人間対人間の関係に於いては割と本気でそう思っている。