創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

(現実のはなし)怒りをタブー視しない

 

 

 

私の父親は非常にキレやすい人間であった、両親とはとっくの昔に離れて暮らすようになったので今はどうか知らないが私は子供時代常に父親の逆鱗に触れていた、むかつくタイプの人間というのは居る、私は物覚えが非常に悪かったので100回どころか500回くらい言っても全く理解できずに同じ失態を繰り返すタイプの子供だった、熱湯した湯の中に指をつっこんだりとかそういうことをしでかすタイプで、かといって活発でもなくひたすら陰気だった、そりゃ怒られるだろうとは思うのだが、怒られるということと怒り狂うという事の間には埋められない溝があって、私は父親の怒り狂うスイッチを頻繁に押していた、スイッチを押してはまた耐えて固まり、筋肉が固まって痛くなると動き出して逆鱗に触れていた、よって楽しく遊ぶというよりも怒り狂わせないように様子を伺って過ごす時間の方が長かった、この件に関して今思うのは私自身も父親の血を受け継いでいるという事だ、私の逆鱗は何かというと大の大人が野生動物を食べるわけでもないのに傷つけて遊ぶ奴、あれだけは怒りが抑えられない、手がぶるぶる震えてきて居ても立っても居られなくなる…あれ以外なら正直放火しようが殺人しようが人間に依存している犬猫畜生類を殺そうが反射的に怒り狂うという事はせずに居られる自信?がある、じゃあ野生動物を自覚なくついうっかり虐めて楽しんで遊んでしまっている馬鹿共に我が父のようにぶん殴らずに対処するにはどうしたらよいだろうか?冷静に対処するために怒りに慣れるにはどうしたらよいか?

 

声を発して、言葉で相手に伝えるより他無いのだ、どんな相手に対してもそうだ、これに関しては本当に修行だと思っている、今まで嫌々ながらも声を発して自分の考えと相手にしてほしい行動を告げ伝えたのは…真夜中に我が家の庭前に何故か来てエンジンふかして粋がっている中年バイク乗りたち、自然保護地区で子供用バイク(暇そうなおまわりにはあれを法的に取り締まってほしい)を乗り回している馬鹿親子(本来はそこに鳥が憩っているはずなのに怖がって逃げてしまう、自然環境を破壊しているという自覚がまるでない、いっぺん轢かれろ)、寝ている大型野鳥を追い回しているクソ馬鹿親子(とりあえずお前らは鳥葬の刑に処す)…この連中である、いや全然中年バイク乗りとかは許してやれよと思うかもしれないけど不快であったし爆音でふかしているもんだから周囲にも迷惑がかかるので表に出て、怒りをひた隠しにして弱弱しい女を演じながら立ち退きを請うた思い出がある、実際には怒り狂って対応するということはしないのだが大型野鳥を追い回しているクソ馬鹿親子に対してはもう手が震えていて朗読で毎日鍛えている肺活量を最大値に生かして怒鳴った、怒鳴りましたね、でもひとつ思うのがじゃあ怒鳴らなかったらどうなのということ…たぶん日本人の八割くらいは怒りに関して、身内には爆発するけど外部には我慢という選択肢をしていると思う、私はこれこそが抑うつ状態を加速させる負の連鎖や家庭内暴力の正体なのではないかと勘繰っている、さっき冷静に対処するために怒りに慣れろとか言った舌の根の乾かぬうちに自分が怒鳴ったことを正当化しているようで申し訳ないんだが、暴力に至らない段階では怒りを表明するっていうのも一つの伝え方の手段なんじゃないのかと思っているのだ、しょっちゅう怒鳴ってたら威力も半減なので自分がどうしても許せないこと…私の場合野生動物や自然環境といったものへの暴虐…に関しては怒鳴ってOKという許可を出している、外部に対してだ。

 

外部に対して己の気持ちの表明をする、快不快をはっきりと出す、あるいは自分が果たして何にどう怒っているのかを分析して開示する。

 

これが暴力衝動を抑える鍵のような気がしている、ちなみにだけど暴力衝動というものには自殺も含まれるし女親が子供を殺したり虐待したり無視することも含まれる、怒りや暴力衝動には本当は男女差は無いと私は思う、で、じゃあ暴力衝動を抑えきれないタイプの人間を叩けばいいかというとそうではないと思っている、私の場合自分がさも被害者みたいな面をして父親叩きをすりゃあそれで怒りの根源と対面出来るかというと無理である、もう一歩二歩と自分の内面に踏み込まない限り怒りとは対面出来ない仕組みになっているのだ、私がたまに書く短編小説でもそういう実験をしている、現実での自分だったら関わりたくないようなタイプの人や暴力的と思われる物事に惹かれる人の内面とはどうなっているのだろう?自分にもその一面があるのではないか?といつも考えるようにしている、とはいえ私自身も善人ではないのでゴミ拾いをしているからといって優しくはなれないのだ、怒りを感じたくなければ…怒りを感じなければ私は自分を『とても優しいタイプの人間だ』と感じながら過ごすだろう、怒りを感じないように過ごすには面倒なことに関与しないことだ、面倒な事にも種類があるが自分の直感が引っ張る物事で尚且つ面倒な事…これは本当はとても大事な事であるのでやるべきである、何故ならこの中にこそ自分の怒りを見ることが可能だからだ。

 

文章での怒りの表現については「自分が何にどう怒りを感じたのか」を冷静に見つめたいという欲求を持っている、なので怒りに関しての表現を敢えて率直にしているのだが…これは受けが良いとは言えない、当たり前と言えば当たり前だ、怒りというものは伏せておくのが我が国の常識だからだ、ただこの伏せられた怒りはどこへ行くのかと言うと職場での悪口だとか何事にも責任を取らないという受け身の攻撃や傍観へと転じる、怒りを暴力にせずに冷静に消化したい、そのためには怒りのタブー視をやめるしかないという結論に達したので怒りも表現するという手法?で文章を書いている。

 

このブログ中で私は怒りの表現をしてきたが書いている最中は全く怒っていないし、これは難しいんだけれども読む人に怒りをぶつけているわけでも何でもないのです、単にこういう風に怒りが湧いて来たんだよと表現しているだけである、読み手というのは私にとってたとえそれが実際の知人友人であろうとも遥か彼方に居るものであるので、その人たちに直接的に怒りを理解してほしいと懇願しているわけでもない、仲間になってほしいとも思っていない、ただ、私は自分自身の怒りというものを自分で理解し、理解した旨を書き残しておきたい欲求があるのだ、何故か?答えは…自分がやりたいと思う事や特に利他的(というものは実際には幻想でしかないのだが)な自発性を追求したい欲求があるからだ。

 

ゴミ拾いだとか犬の糞だとか大量の古のエロ本だとか放置自転車やガスコンロを見ると怒りが湧くこともある、ゴミなんかはむしろラッキー?みたいな感覚で拾っているのでもう常軌を逸していると思われるが私でもむかつくと思う事はある、悪気は無いのは判っていても物珍しさで指さされたりしたときとか苦笑されたとき(ゴミ拾いというものを実際に『個人で』やっている人ならばわかるだろうがかなり目立つ行為であるので女であるし杖もついているので宿命的にこういったことは起こる)、処理の面倒くさい不法投棄粗大ごみとかと対面した時である、自分の善意が全く通用しないばかりか逆手に取られていると感じたり、他人の助けが必要な時、その意思疎通が難しくて苛々したり疑われたりするときに怒りを感じている、じゃあやらなきゃいいんじゃない?別にあたしがやらなくてもいいんじゃない?その通りである、ただその場合の理由を突き詰めてみると『怒っている状態の自分』というものに対面したくないからやらないという事になる、本当は他人はそこに居やしないのだ、怒りをコントロールするにはその状況に慣れるしかないので出来る範囲で首を突っ込むようにしている。

 

そして…怒りに関して表現するときにようやく私は理解するのだ、全然責めてないしゴミを拾う事には謎の喜びがあるのであたしの仕事と思ってるのだがそれでも、何故自分の家の前の道路のゴミを取らないんだろう?とか、何故誰も投げ捨てられた自転車を撤去しないんだろう?という疑問の答えをそこに見る、誰も怒りたくないからなのだ、内面の苛々しやすさ、善行をしようとしているのに職質されているような滑稽で無意味な対応をされた時に感じるやるせない腹立たしさや暴力衝動に対峙したくないからなのだとようやく理解する、ああそうか、怒りってものがタブーなのか、でも人間は怒る、顔に出さなくても、臨終間近の修行僧ですら苛々すると私は思う、私が言いたいのは怒りの表現であってその目的は『その場で怒り狂わない』為に怒りを見つめるということだ、そのために自分が怒る仕組みと共用範囲(自分で自分の怒りを許してやれる範囲)を明確化することだ…これをしない限り陰湿ないじめや悪口や家庭内暴力は無くならないばかりか悪化するだろう…私個人としてはこれからも乱雑で見苦しい表現をしてしまうだろうと思う、だがいつか怒りと言うものに込められた真意や感動を見つけたいと密かに願いつつ書いているということだけは、ここに記しておく。