創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

ポイ捨てゴミ100袋

 

今までに累計100袋以上のポイ捨てゴミを拾って、ゴミ収集に出したのだ、綺麗な小川にゴミが流れるのを100袋分したのだと諸手を振って歩きたいもんだ、というのも手帳を見ていて気が付いたのだ、まあ、お前の手帳なんぞには何も書くこともあるまいと思われるかもしれないが、ゴミに関することを大雑把に記録しているので(どこを廻ったとか量とか生き物の死骸についてとか)週に三回…すなわち三袋のゴミを回収に回したことを考えるとその累計は明らかに100を超えたことが伺えた、頻繁にゴミストーカーをし始めたのは今年の年始からだがよくよく考えたらもう3年くらいの間ゴミ拾い行為をしているのだから当たり前と言えば当たり前でもある、しかし私は強く思った、今まではなんとなくゴミを追い求める自分が厳密に何をしているのか理解不能であったが今はもう違う、確かに現実として大量のポイ捨てゴミを処分したのだという謎の実感を、素人ながら噛み締めたところだ。

 

ポイ捨てゴミ100袋、勿論社会的には全く意味ない事で、これを実証することも出来ないし、社会参加とすら呼べない物事である、どこまでも孤独な趣味でしかない、孤独な趣味をずっとやってますと言ってニヤニヤしていても世の中的にも無意味であることは言わずもがな、百も承知、である。

 

社会参加というと、そんなにポイ捨てゴミを拾うのが好きならゴミ拾いボランティアにでも参加して、社会的にこういう活動をしていると認識できるやり方でその孤独な趣味とやらを続ければいいんじゃないかという意見もあると思うがそれは違う、ボランティアなどの人間関係の生じる物事に於いての行為となると、私も人間であるのでどうしたって自分がかわいい、自分可愛さゆえに、ボランティア仲間の機嫌を伺ったり立場をわきまえたり、その挙句ゴミを拾う頻度を減らしたり、遠慮したりという本末転倒な事態になりかねない、第一、こういった「やらぬ善よりやる偽善」と認識される物事は本当に、自分本位である意味では傲慢に我がままに行ったほうが良いと私は思う、そのためには世間から離れて一人でやるほうがすべてに於いてマシである、と思っている、自分本位で行う行為は仕事には成り得ない、しかし人間関係を土台に行う行為は例えそれが利益を生じなくとも相互関係を維持するという目的を携えてしまうが故に、仕事、になってしまう、仕事、をするとなると誰もがある意味では利己的になる、だから孤独に、何の社会性もなくコツコツやったほうがすべてのためになると思っている。

 

さて、先日こんなことがあった。

「何を拾っているんですか?」

と声をかけられて、ゴミですよ、と答えたら相手は少し唖然としていた、それ以降返事は無かった、ちなみにこういったことは少なからずある。

 

私もゴミストーカーがよくよく性に合っているせいか、全然別の用事で出かけて、行きがてら見た大量のポイ捨てゴミを、その用事の帰りしなにおもむろに、持ち歩いているゴミ袋を広げて普通に拾ったりするようになってきた、これでも普段いろんなことに気を付けている、ゴミ拾いは縦横無尽に歩くために自転車に気をつけねばならない(自転車の迷惑にならないように動作するため辺りを伺ったりする)、草むらを行くときには蛇に気をつけねばならない、鳥が騒いでいたら彼らをパニックにさせないように気を張らねばならない、めずらしい草が花を咲かせていたらそれは踏まないようにしなければならない…もういっそインドのかの人々、日本では知名度が低いように思われるが、ジャイナ教の人みたいに箒で道を掃きながら殺生をしないように気をつけて歩いたほうが、ゴミも拾えるしいいんじゃないか、というか私は前世はジャイナ教徒だったんじゃないか?というくらいこれでも私なりに周囲に気を配っている。

 

しかし人間社会に対しての気配りが根本的に欠けているせいでこれもまた、人を驚かせてしまったりする、人間社会を感知する能力が私には欠けている、申し訳ないと思っている。

 

目の前を歩いていた女性がいきなりゴミ袋を広げてゴミを普通に拾いだしたということが誰かにとっては常軌を逸した行動で、誰かにとっては…もしかすると、敢えてネガティブなことに目くじらを立てているように受け取られかねないのだ、私の姿を見て世も末だと感じた人もいるんじゃないかと思うと少し胸が痛む。

 

が、自分の恰好を考えても、漠然と思い浮かべる女性、女性像、というにはすべてがラフすぎるし、メンズものやユニセックスものを着ているせいかあまり女性という感じはしない、第一履いているのは…全くオシャレではない足を保護するスニーカーである、着飾った女性が楚々とゴミを拾っているのとは話が違うのだ。

 

しかも…これについてはまた別の機会に述べるが夢でたまにイチモツをぶらさげていることもある、男の持つ睾丸は地球の磁場を差し測る水平器みたいなものだと常々考えている、だって夢で睾丸のある感覚(あれはすごく落ち着く)を覚えていて、朝には「睾丸が無くなってる、水平器が無い、なんて不安定なんだ…」と多少驚きながら目覚めることもある、女の身体というのは歩く時も泳ぐように不安定である、だからかは知らないがあまり汚さとかについて嫌悪感が無い、道に座ったりも出来る(自然の場所以外では滅多にやらないが)、え?汚い?うんまあ自分も含めどんなに歯医者に通って清潔に保とうが、人間の口の中とかのほうがそこらの道路よりもずっと汚いと思うが…とまあ、こんな風な人間であるので、確かに私は女でそれを否定する気は無いが、幸か不幸か女らしい感覚の持ち主ではない。

 

↑ ということを勿論世の中の誰も知る由は無いので、私の、人間社会への気配りが足りないせいで私のゴミ拾い行動を非常に珍奇なものと見る人も居るようなのだ。

 

それだけには留まらず、運悪く祝日の通勤時間帯(さすがに平日の通勤時間にはゴミ拾いは避けている)に往来で女性らしい女性たちに出くわしてしまうと大抵あからさまに避けられる、ゴミは汚い、だから汚いものが怖いとか、生理的嫌悪が先んじてかさっと身を翻されること多々…確かにこれに関しては私も悪いような気もする、ゴミというのは誰も触れたくないからゴミなのである、しかし思う事もある。

 

社会的に定義された幸福や幸運、ポジティブさというものの裏には必ず、不幸やネガティブというものがある、先にも述べたようにある人から見たら私は人間社会のネガティブにばかり惹きつけられているように見えるだろう、敢えて不幸の塊みたいな振る舞いをしているようにすら見て取れるかもしれない、ただ、上記の女性たちのような、汚らわしいものにはなるべく触れないようにしようという価値観が、私にはあまり良いものに見えない時がある、これは女として生きてきているのに女性の友人や同胞だと思える人が極端に少ない事の意趣返しのように聞こえるかもしれないが、ポジティブでキラキラした綺麗なものばかり身の回りに置いて、その他には触れないというあの感じが、思春期には鼻につき、中年期の今はなんだか歪んで見えたりもするのだ。

 

美容整形とかもそうだ、いや別にとんでもない不細工が生きていくうえで整形するのはなんらおかしいとは思わないしむしろ下手な病気より早く改善したほうが楽だねと頷きたい、しかしアンチエイジングとかになってくるとそんなに、ただ、年老いることが怖いのかと、寒気がしたりもする、女という生き物を批判したいわけではない、私もこれでも女である、が、綺麗なものと汚いものとの間にどのような差があるのかいまいち理解出来ないし、両者は同一だと思えてならないのだ、吹き曝しのゴミはそんなに汚くない、路上わきに捨ててある喉越し生の空き缶よりも、使い古した化粧品のほうがたぶん菌類とかが溢れているよ、と言いたくなる時がしばしばある。

 

ゴミについては独特の感情があり、つい長くなってしまったが、ポジティブでもネガティブでもないものとしてゴミを拾っていると言いたいのだ、何故ゴミ拾いをするのかと問われたら、深く答えるのであれば、身体が動くうちに…もちろん一生動かしていたいのでという意味を込めてだが、人間と自然、あまたの微細な生き物と非生物、この世とあの世、宇宙と非宇宙…そういったものの調和と共鳴と循環の働きのために何か行動したくて、実際の、思想や祈りとかではなくて現実の働きとして、ゴミ拾いは的確であると思うからやっているということだ。

 

この手の質問について逆に問いたいのだが、何故ゴミに気が付かないのか?

 

あるいは、何故、自分の家の目の前の道路とかにカップ焼きそばと焼酎とかが捨ててあっても無視するのかが私には疑問である、前者はともかく後者については度々疑問視している、自分の家の目の前の道路のゴミとかをそのままにしておける神経がわからない、全然責めてない、責めているわけではない、ゴミをポイ捨てする奴が悪いとも思わない、しかし普通の神経をしていると仮定される多くの家々が目の前の道路に捨てられたものに関して我関せずの態度をとるのが腑に落ちないのだ、私にはゴミ拾いは苦行でも享楽でもなく単純なスポーツ行為に近い、別に仕事としてやっているわけでもない、気分でやっている、これからもそういったゴミを拾う事に関しては不満どころかすでに勝手に請け合っている感覚だ、だから拾う事に関する疑問を問いかけられるとむしろ問いたくなるのだ、ゴミってそんなに汚いか?

 

汚いものは「綺麗なものよりも汚いのか?」と私は問いたくなるのだ。

 

綺麗なものを血眼になって探すよりも汚いものを普通に拾ったほうが心が安らぐのだが…しかもそれは結局すぐ、おおかたその週のうちにゴミ回収に出して捨ててしまうのである、この世から焼却処分ないし、ペットボトルや缶などは何らかの処理をされている、ゴミをいくら拾っても素人である私自身が一か所に溜めているわけでもないのだ、世の人々の働きによって灰になってしまうので気分的にもすっきりする。

 

ポイ捨てゴミ100袋というものが地球環境や私自身の言う壮大な宇宙と非宇宙とかの領域にまで干渉するとは到底思えないし、(数字が)でかけりゃいいってもんじゃない、量より質、長年やったとかそういうことは時間の存在が無意味であるのと同様、無意味である、でもこれからも拾ってゆこうと思った次第である、そして何より、私のような矮小な素人ゴミストーカーは、結局のところゴミ処理場の偉大な御力を借りてこのゴミ拾い行為をやっているに過ぎない、ゴミ回収やゴミ処理といった人間社会の正当なる仕事をしている方々に、この場を借りて深くご御礼申し上げます、ありがとうごさいます私のライフワークがお陰様で助かっております、来世ジャイナ教徒に転生した暁にもどうぞよろしくお願い致します、敬礼。