創作文章 獏の骨 

散文、詩、日常独白雑想

【散文詩】春霞

 

 

死ぬなら春がいいと思っているのです、春に死ねば春霞に入ることが出来ましょう。

 

でもほら、見て下さいな、落ち葉が踊り始めている、春霞は春の生き物です、今見えるのは霞ではなくて霧なのです、霞(かすみ)と霧(きり)の違いはご存じでしょうか?

秋は真珠貝の霧、ご覧ください、夜明けの空にまだ居残っている月の輪は、春でなければいつもただの霧の色、あまたの水滴の色…今は秋ですもの、霧の水滴しかないんです、もしかしたらその水滴が、動物を生き永らえさせている命の水なのでしょうか?踊れ踊れと囁く命の水なのでしょうか?

 

いいえ、命の水は命の川である春霞以外には存在しないのです。

 

動物は春に死ぬのです、春先だったり初夏だったり、しかし時節は春のうちにその多くが死ぬのです、春の曙には霧は消え、その代わりに霞(かすみ)が生じます。

霞というのは春の靄(もや)なのです、霞というのは水とは言えない何かなのです。

一方で霧はそれが夏であろうと気温が冷えたときや大気の中で何らかの差が生じたときにただよう明白な水滴なのです、そうです、水滴、と言ってしまえるものが霧であり、霞は具体的には示すことの出来ない春の命を含んだ靄なのです、その命というのが動物の命だと私は思うのです、だとすれば動物たちはわかっていて春霞に合流するのでしょうか?

 

動物たちはわかっていて春に、死ぬのでしょうか?

春に死に、春霞にて、命の合流を果たすのでしょうか?

 

私は春の間、春霞をなるべく口に含まないように歩きます、腹を見せて横たわる鳩を埋めているとき、土を掘ってセキレイを休ませているとき、首輪もない痩せこけた毛玉だらけの白猫を、その水面から引き離し、近くの土手をうんと掘って土をかけているその時、春霞を口に含まないようにと、昔、修道女に習ったように口元をぎゅっと結んでいるのです。

 

春霞が命の合流地点であり命の川である、春先の土手を歩きながら、普通の川と春霞の川、そんな二重の川をよく見つめたものです、春の霞とそれ以外の季節の霧との区別が、私のような目の悪い女にさえ目視できるというのは甚だおかしなことのようでもあります、でも明らかに、春霞は光を帯びているのです、惹きつけられてはならない光を放ちながらすべての命を見ているのです。

 

恐ろしくはありません、この微細な光を私は宝物のように感じております、今は大気の中に眠って次の春を待っているのでしょう、春は、他の季節には夢を見て過ごしているのです、春霞の夢に落ち葉の踊りが訪れる時、私たちもまた踊るのです、踊り、明白な水滴である霧を口にそっと含んで耐え忍ぶのです、秋や冬というのはそうやって越えてゆくものだとすべての生き物はわかっていて、踊り終わったらそのまま寝転がり、春に死ぬのです。

 

春霞に入り込んだら自身が命の合流地点そのものになるのです、命の川になるのです、命、というものには明白な目的があるとされます、だとしたら川は、海へ行くという目的があるぶん普通の水とは違います、ましてそれが春霞であるならば尚更です、春霞は春の終わりに巨大にな川になり、何かを目指して流れてゆくのがはっきりと見て取れるのです、果たしてどこへ行くのでしょう?命の終わりへと進んでゆくのでしょうか?そして初夏ごろ、緑が地面からうごめき、昼も夜も絶え間なく歌いだす時に春霞は小さくなり、いつのまにか消えてしまうのです、死んだ動物たちは春霞の旅にはぐれずに着いていったのでしょうか?

 

それを確かめるために私は、真珠貝の霧を見ているこんな秋ですら、死ぬなら春がいいと思っているのです、ただの水滴を口にしながら、死ぬなら春がいいと思っているのです、春に死ねば春霞に入ることが出来ましょう、春に死に、春霞にて、命の合流を果たしたいと切に願っているのです。