独白、散文、詩【創作ブログ朗読】獏の骨

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愛と感動 【欲望は恥なのか?】


【独白ブログ朗読】愛と感動【欲望は恥なのか?】

 

アダルトビデオを10本くらい抱えて帰宅、ビデオ、そう、なんとVHSだ、はじめに断っておくが、何も好き好んで30年ほど時間経過したVHSを大袋に入れて帰宅したわけではない。

 

いつものゴミ拾いコースである並木道に敢えて人目につくような置き方で、まとめて捨ててあったのである。

この手のゴミが雑木林とかそういう、人間の世界と自然の世界の中間みたいな場所に打ち捨ててあったのなら、私とてわざわざ拾ったりはしない。

性欲というものが自然生命に埋もれているのを邪魔したりはしない、だが、こんなに堂々とした人間世界に誰かの情熱の燃えくずが捨ててあるとちょっと不穏な空気を感じてしまう。

最初に思ったのが、もしかしてこの並木道を私が清掃しているのをそれとなく察知した誰かが、ここに捨てれば処理してもらえると踏んでわざと不法投棄していったんじゃないかということ。

 

それにしてもVHSなんてものに手を触れるのはいつぶりだ、今時、ビデオデッキのある人のほうが珍しいだろう、パッケージの雰囲気からして下手したら私の父親とかよりも年寄りが見ていた可能性すらあると思った。

 

正直、笑えないなあというのが素直な感覚だ、そのようなVHS世代が、何か家庭の事情などがあって身内などの手前、公に捨てるに捨てられなかったのだろうか。

その本人の抱いているであろう感覚を例えるなら、なんだか子供がアダルト的なものに手を出して、親にそういうものの存在を頑なに隠すような感じを受けた。

その幼児期の感覚のまま、大人になり、本来であれば自由気ままに楽しめるはずの権利を得ている物事である、性というものを、結局この年配者と思しき人物は、その処理に困る人生を歩んだということなのだろうと推察した。

そういう人生を歩んだ可能性がある、ということそのものが他人事ではなく、私には笑うことができないと思った。

だからこの手の、古びたアダルト関連のゴミを見つけてしまうとなんだか妙に悲しい気持ちに苛まれる。

 

勿論全部推察である、が、もし一人暮らしの人物の場合、どのようなゴミであれ、基本的に好き勝手に出せるはずだ。

それがアダルトであれ、秘められた趣味であれ、外面を取り繕う必要性がない場面では、個々人が…恥ずかしいという気持ちを抱いていたとしても自分の欲望に向き合うことが可能なはずだ。

性欲の部分は公にはしてはならない、これは言外のうちに皆が覚えさせられる物事である。

だがこれには弊害があって、つい、【欲望なんかまるでないかのようにふるまわねばならない】という状態に陥る。

それがさらに【欲望なんかまるでないような人物】だといつのまにか思ったり思われたりしてしまい、また同時に、【欲望のない人物であってほしい】という無茶な期待まで背負わされたりする。

 

実は案外、女性のほうがこのあたりの事情は共感出来るんじゃないだろうか?

欲望を公にするということは、女性にとっては最もタブーである、現在も未来もしばらくはタブーだろう。

欲望そのものがある、ということを基本的にひた隠しにしなければならない、なぜならまだ、欲望というものの先には【本人の取捨選択】という一番の重要決定事項が存在し、それだけがほとんど自由意志と呼べるものであって、ただこの取捨選択のみを尊重するという文化的下地自体が形成されていないように感じるからだ。

欲望のあるなしは基本的に身体に備わっている元来の感覚であるので、それを自由意志とは呼びにくい。

だから欲望のない人はめったにいない、大事なのは欲望を隠すことなのではなく、取捨選択の機会が全員にあり、全員の意思を尊重すること…これだけなのだが、なぜかこの部分ははじきとばされ、欲望そのものを出すととんでもないことになると…まるで起爆剤のように恐れられている。

 

特段フェミニズム的なことを言うわけじゃないが、ちょっと考えることがある。

女性の欲望がタブー視される背景には、危険だとか、男の暴力衝動に直結するから厄介だとかそれ以上に、その欲望と取捨選択の決定権が増すと、長年構築してきた人間関係だとかを一瞬で崩壊させたりしかねないという集団心理も作用しているだろう。

 

話をアダルトゴミに戻そう、この手のものを大量に捨てていくということは、置き場所に困ってのことである、本人にしてみれば隠さなければならない何らかの心理的事情があるのだろう。

そういうゴミを見て、またそのゴミを自分が処理しなければならないと私が決意したとき、まるで「息子のアダルトゴミを処理しなければならない母親」にでもなったみたいな気分だった、決していい気はしない。

男性はまた、率直にこんな疑問も浮かぶだろう、女がアダルトなものを見たら反射的に興奮するのか?

時と場合、またそばにいる人によっては興奮することもあると素直に答えるが、じゃあこのような赤の他人のアダルトゴミを見ていていきなり自分の性欲が刺激されるか否かを答えると、当たり前だが否である、それよりも何よりも、持ち主の気配が直に色濃くあるのでさすがに気味が悪い。

しかしこの気味の悪さを鼻で笑ってしまえるほど、私自身、自分の欲望に率直に向き合う人生を歩んできたかと自問すれば、残念ながらこれもまた否である、だから悲しいのだ。

 

欲望、というと暴力的なイメージも湧くが、暴力感情のない人もこの世に存在できないだろう、自分の暴力感覚だけを過度に押し込めたり、暴力を必要以上に恐れると心の動きが鈍くなる。

心の動き、つまり感動しにくくなる、と私は考える。

よって性欲や欲望とは言い換えれば【愛と感動】であるとも言える。

エネルギッシュな愛と感動が欲しい、人生で手に入れたいものの一つは、愛と感動である…と私は言えただろうか?

愛と感動が欲しいと率直に、それだけに対して手を伸ばしただろうか?

否である。

 

人生で突きつけられるように感じる課題について、自分の足りないと思う部分について、それを補填し、何とか「平均的」な生活がしたいと多くの人が無意識的に思わされているように思う。

私個人は、恥ずかしながら非常に出来の悪い人間であるので、とにかく自分が運動でも勉学でもいつもびりっけつだった。

そういう出来損ないの人間はどうやって生きていったらいいか?

なんとかして自分がもう少し普通、人並みにならなければいけないような焦燥感をいつも抱いていた。

出来損ないである自分が愛と感動、みたいなハチャメチャなものを望んだら、とにかく想像もできないような恐ろしいことになって、自分みたいな人間の運転する人生がめちゃくちゃになって、ともすると第三者の人生も巻き添えにするくらいの大事故を起こしてしまうかもしれない。

だからやめておくんだ、できっこない、無理はしちゃいけない、愛と感動なんていう欲望は無いようにしなければならない、私なんかが誰にも迷惑をかけず、また私自身が大事故を起こさないように安全に生きるには、欲望なんて無いかのように振舞わなきゃならない、周りの人だってそういう「きちんとした女性」を望んでいるのだ。

そんな感覚がずっとあった。

 

そう、愛と感動を手にするぞという意思決定が本当の意味で可能なのは、頭脳も身体も人並みレベルに強い人間に限られてくる、これは別に社会が悪いとかではなくて、残酷かもしれないが自然の法則とはこういうものなのだ。

 

現に私と同年代で、自分の好きな人を必死で探し、本当の意味で心身の合一を図り、子供をもうけている女性たちはみな心身の出来が人並み以上だ、社会的にも強い、男で結婚している人自体も少ない。

結婚がすべてではない、が、自分のパートナーを選ぶときに、漠然と考えさせられるのが「人並みでなければいけない」という一種の脅迫概念である。

自分の性格がひねくれていると自覚しているのなら、パートナー選びにあたっては、客観的に見て「男女がプラスマイナスゼロになるような匙加減で」性格のひねくれていない人を選んだり、社会性のあるタイプを選んだりする。

それを決定しているのは自分の自由意志だとは思うが、情熱だけでは人生の舵取りが出来ないという謎めいた呪いの呪文に知らず知らずのうちに絡めとられ、平均的な家庭を築くために結婚するみたいな、愛と感動はどこかへ置き去りになった状態を人は「落ち着いた」と評価しがちである。

果たして本当に自由意志で婚姻を決意している人はどのくらいいるのだろうか?

 

平均的なもの。

安定したもの。

欲望以外の持続性を感じさせる信条や空気。

そうすれば子孫も自分自身よりも平均化し、世の中をうまく渡ってゆけるはず。

 

そんな幻想を抱いている人、そんな幻想を抱かせている風潮が現にあるように感じる、もう何世代前からかはわからない。

確かに、愛と感動を追求した男女が良い両親になる保証は一切ない、もっともいい両親というのが、人並みな知能と能力を持った人間と仮定するならばの話だ。

だからもう数世代も前から、ことによるとはるか昔から、性欲は子孫繁栄と切り離されているように思う。

平均的になんでもこなせて物分かりのいい奥さんをだんだん抱けなくなってきて、それが顕著になり、暗黙の了解で自分は妄想の世界で性欲を昇華させているなんてのはまあよくある話で、女は女で、自分に欲望があるということ自体をひた隠しにしたりする。

男女ともにそのような状態の原因は、自分自身の愛と感動をなおざりにしたからである。

なぜか?

そこまで自分が強くないから、そこまで自分が万能でないから、人間社会の中で人並み以下かあるいは偏った特質を持つ人間だと自覚しているから、またそういう自分、もとい次の世代を少しでも人間社会のなかで人並みにしたくて、人間社会の水面下で繰り広げられる野生の競争には勝とうとしなかったから、これが、人生に愛と感動が欠けていることの答えであるような気がする。

セックスレスの答えもこんなところだろう。

 

そういう状態が慢性化すると、人間は自然とそれが習慣になり、いつのまにか文化とまで呼べる雰囲気を醸し出す。

つまり、家庭には愛と感動は基本的にはそこまでなくていい、愛といっても静かな慈しみや子供への愛、慈しみの愛が尊い愛で、暴力を含んだ欲求は男女ともにひたすら抑えるべし。

欲望なんてものはよそで発散するものか、あるいはひた隠しにするものであって、それを自分自身とさえ認識できないような状態になるのすら普通のことで、だから外部に求めるしかない。

 

アダルトビデオと呼ばれるものがこの国で大流行する下地がおおいにあったのだ、みんなが夢想しているのはいつも愛と感動であって、それは全きファンタジーでなくてはならない。

自分の両親も、自分の配偶者も、自分の子供も、各々が愛と感動を求めているなどという生々しい真実に触れる必要性が無い。

双方がそう思われていること、もとい、そう期待されていることを自覚しているので、だから余計に性欲のファンタジーが現実離れしてゆくのである。

 

これまた恥ずかしながら、私自身は特段貞淑な娘ではなかったけれど、そのような気配で生きてきた男と付き合うことが多く、そうなると必然的に求められるファンタジーの度合いが…本人の受けているであろう欲望を表に出すなというプレッシャーから、余計に求められる欲望のハードルが高くなるので、セックスそのものが曲芸並みにハードなものになり、若いうちからいっそ賃金制にしてほしいくらいばからしいことをやらされてきたように思う。

そしてのファンタジーがたびたび、身体的に実行不可であった場合に、実に普通にピロートークで低評価を下されるということが割とあった。

この種の話は、遊ばれているだけだとか男特有の理論で推察されることもあるが、これを男に遊ばれた娘のたわごととして思考停止するのはちょっと浅はかであると思う。

それくらい、アダルトビデオ、AVのもたらすファンタジーは強烈で、私自身も様々な曲芸をやらねばならないと思わせる不可思議で病的な引力を感じた。

 

これが愛と感動だろうかと私も自問し、いつのまにか自分自身の愛と感動ははるか遠くにあるもので、事によるともっとハードな要求を飲める女にしか手にすることのできない秘密のカギのようなもので、私みたいな出来損ないには到底無理なんだと落胆する一因にもなった。

この無力感を信じられないほど多くの女性が味わったことと思う。

断っておくが、男が悪いとかそういう話ではない、私が男でも同じファンタジーを夢見ることは、自分の弱さから察するに十分ありえることだ。

私自身が愛と感動を「自分には実行不可能なファンタジー」だと認識したところに、私が自分自身の欲望を直視しなくなった問題はあるし、そもそも下地として、私個人ではどうすることもできないほど大規模な民族問題のような気がしてならない。

 

欲望は、それが叶えられたと感じたときに真に自分が、自分自身に成れたと感じる重要な物事である。

 

もし、婚姻関係を結ぶ基準が本当の意味で愛と感動に方向転換したならば、民族的な性質が変化するだろうと思う、ひょっとすると路上のゴミなんかは爆発的に増えるかもしれない。

だがアダルト関連のゴミは減るだろう、隠す必要のない相手がいるのならばそんなものは堂々と、捨てるなりなんなり処理することが可能になるからだ。

愛と感動、すなわち自分の欲望は秘めたるものなのか?

果たして欲望は恥なのか?

自分の欲望を男女とも正直に素直に、恋人や配偶者に開示できる状態にある人間はどれくらい居るだろうか?

自分の欲望の共犯者が居ると、本当に答えられる人はどれくらい居るだろうか?

アダルトビデオやさまざまなお宝画像、とんでもないデータ量の動画とかを、誰かにはこっそり開示できるという関係にあるとか、共犯関係の他者の居る人は、どれくらい居るだろうか?

相手が嫌がるからとか、自分がたくさんの異性と関係を持ちたいという自分だけの欲望だから誰にも見せることができないという意見もあるかもしれないが、その種の事柄が実は男女ともそこまで大差ない欲求だということを、冷静に受け止めることができる人は増えるだろうか?

 

欲望のない人間などいない。

そして欲望は誰かと、共有、共犯しないかぎり愛と感動には変化してくれない。

 

見知らぬ誰かの叶わぬ夢、欲望の残骸であるところのアダルトビデオ約10本。

重くて地面におろしては、何度も持ち直してようやく帰宅した。

そう、愛と感動を求める気持ちは、重いのである。